中国には、大多数を占める漢民族と、その他55の民族を政府が区分するという政策を取っています。
いわゆる民族区域自治と呼ばれているものです。文字、言語、財産、組織、法令などの一部を民族ごとに行うことができます。
さて、中国自体が非常に人口の多い国ですが、中でも漢民族は突出した存在です。
漢族と呼ばれており、中国人口全体の94%以上を占めています。
地球上の全人口から考えても、およそ2割を占めるほどの最多人口を誇る民族です。
漢族は中国はもちろん、台湾やシンガポールにその多くが生活をしています。
中国人口のほとんどを占める漢民族ですが、中国伝統の祭りという観点では複数の少数民族と背景で絡んでいるものも少なくありません。
その中で一番ポピュラーなお祭りは龍擡頭(りゅうたいとう)です。
漢服という、漢民族の伝統ある民族服があります。
紀元前2500年前後、春秋戦国時代の五帝の1人、東洋医学の始祖とも言われる黄帝の時代から、
万暦帝が即位したことをきっかけに明が滅亡してしまう1600年前後までの合計約4000年における漢族の服装の総称です。
見た目の特徴としては、透明感がまず挙げられます。
そして、襟や袖なども長く揺れやすいことが、その透明感と相まって非常に独特な印象を与えます。
それらは漢族の考え方や価値観などが抽出され、具現化されたことで作り上げられたと考えられています。
礼や自然との繋がりも表れる服装だと言えるでしょう。
そもそもの発端は、中国の新石器時代に麻で衣服が作られ始めたところまで遡ります。
その後、ボタンはまだ普及しなかったものの絹糸を蚕から作り出す技術が浸透し、さらに衣服関係の文化が発展。
魏晋南北朝時代に突入すると、キャミソールのような下着や下駄、ズボンやドレスなど種類がかなり増えてきました。
清王朝の時代には大きな変化が起こります。
国を制したのが漢族ではなく満州人であったこを背景に、漢民族にも満州の服を着るよう強制力を働かせたのです。
この出来事は「剃髪易服」と呼ばれています。
やはり王朝側としては、数に利がある漢民族には脅威を感じており、その濃度を少しでも薄めるための施策の1つとして、これを実行に移しました。
実際には一部の人間には漢服の着用を許していたようですが、この施策の効果によって、漢服文化は徐々に衰退の一途をたどります。
中国最多の民族が着る衣装は、国の歴史と共にあったと言えるでしょう。
上述の黄帝即位の時代から冕冠が使われ始めたことで、服飾制度が次第に形成された。
冠服制度は『礼制』に取り入れらた。
※頭の飾り物
頭の飾りについても、漢民族の民族衣装全体の中の非常に大切なファクターです。男性は冠や帽子など、女性は髪飾りで多様な表現をしていました。
中国の中でも北側のエリアで盛んなお祭りです。
北京周辺を含むエリアでは特に有名だとされていて、いわゆる旧暦での2月2日に開催、古くからの大切な伝統行事となって今も続いています。
この祭りの名前の由来ですが、漢字のとおり龍を意味しています。
中国は今でこそ現代経済の最先端をいく国ですが、そうなる前は一大農業国家でした。
そんな中国では、古くから龍が天候に纏わる神、雨を連れてくる存在だと崇められており、その龍に対して降雨を祈るための祭りとして始まりました。
前述のとおり、今の中華人民共和国は農業頼みの国家ではなくなりました。
そんな時代の流れを受けて、特に発展目覚ましい都市部エリアにおけるこの行事は廃れつつある状況です。
ただ、そんな中でも脈々と受け継がれていることももちろん多くあります。
中国北部では、龍という字を春餅などの名前にくっつけて食すことで、神である龍の気や力を取り入れられるようにと願っています。
その春餅自体、毎年の春に新しく収穫されたいろいろな野菜類から作られており、
季節の変わり目を表す風物詩として重宝されていた時代があります。
そういった背景もあり、この祭りはとても重要視されていました。
ちなみに、春餅の他にはうどんなどの麺類や餃子、また龍胆というきび粉から作られてものなどでも同様の文化が継承されています。
また、農作物にとって天敵の1つである虫も、旧暦2月2日前後の時期に発生し始めます。
こうした虫に対する実際の対策として、火を燃やして煙を出す薫虫という儀式や、
塩に漬けた大豆を油で炒めて大きな音を出す炒豆といった儀式なども合わせて行われていました。